既に防災の研究を始めていた2011年3月11日、何をしたら良いかわからずやきもきしたことを思い出します。
国立仙台医療センターの知人にメールを送ったくらいで、むやみに電話をするわけにもいかないだろうと思っていましたが、本当は電話しても良かったような気がします。
3月11日に何があったのか、再び考えてみたいと思います。
地震
マグニチュードが9というのは、もうよくわからない数字です。とにかくものすごいエネルギーです。
したがって、地震のエネルギーでダメージを受けた建物などがたくさんありました。
その範囲が広すぎて、復旧に時間がかかりました。
高層ビルの上層階ではとんでもない揺れだったそうです。超高層となると制震や免震になっているので揺れは抑えられますが、耐震は建物自体の倒壊は無いとしても、揺れはすごかったそうです。
10階あたりで実験していた先生が、実験機材がすべて破壊されたので研究が続行できなくなったとおっしゃっていました。何年も継代培養してきた細胞群も死滅、研究材料がなくなってしまい、研究者としての立場も危うくなったということです。
東日本大震災は津波のインパクトが大きいのですが、地震でのダメージも相当にあったので、改めて地震を考えてみます。
津波
あれほどの津波は他に無いというほどの30m超の海水の壁が日本を襲いました。
デジタルカメラが普及していたので、デジタル画像がたくさん残っています。
Google検索でも見れますので、ご参照ください。
津波の記録
デジタルデータばかりでなく、語り継がれる話題もあります。
2021年、岩手県大槌町では大槌町東日本大震災津波犠牲職員状況調査報告書「大槌町役場職員」を刊行しました。
大槌町の役場で何があったのかは資料を読んで頂ければわかりますが、大槌町の津波被害は甚大で、何もかもが流されたという地域です。
それでも生き残れた人たち、残念ながら生命を落とした人たち、それぞれの想いが今の大槌町の防災という形として残っています。
大槌町の防災対策はレガシーも兼ねていると思います。
【参考】大槌町:大槌町東日本大震災津波犠牲職員状況調査報告書「大槌町役場職員」
南海トラフ巨大地震
内閣府防災
【首都直下地震編】全体版
高知県
南海トラフ地震対策啓発ドラマ
思い起こす日
やはり震災があった日は、それを思い出して教訓を得て、生きるための力に変える日だと思います。
たった12年前、記憶が薄れるには時間が足りない頃です。
当時小学校6年生だった子がやっと社会人になり、中には結婚して家庭を持つといった人生の楽しい時期でもあるので、無理に思い出す必要もないのですが、戦争を知らない世代が、身近に感じた無残や無力がそこにはあるのではないかと思います。
昨年はウクライナ侵攻で生活を壊されたウクライナ国民がたくさん居ましたが、世界中から救いの手も差し伸べられています。
2011年3月も、世界中から日本へ様々な支援がありました。
このような人類の共助については、国籍や宗教にとらわれず行われ、人間味のある話だなといつも思います。
津波については『高台避難』以外は、津波が到達するエリアに住まないという選択肢しかありません。
避難したいと思ったときに、避難する先があるかどうかが重要になりますので、避難ビルなど民間が協力している施設については、もっと敬意を払い、感謝する日を設けても良いのではないかと思います。
情報の伝達についても考えさせられる震災でした。
SNSの上手な使い方を考えておけば、熊本地震のときのようなデマは流れなかったかもしれません。
注目される都市と影になる都市を考えておけば、後の災害でも明暗を分けることがなかったと思います。
関東の人から見て『東北』というと『仙台』を思い浮かべる傾向にあります。
国や東京電力は原子力発電所がある『福島』を大事にするだろうという予測がありました。
岩手を注目する人は少ないだろうという予測もありましたが、それが当たってしまいました。その岩手は東北で津波被害が大きいエリアとして北側、寒さも厳しかったです。
2018年の大阪北部地震では『高槻』というワードがワイドショーで頻発しました。ブロック塀が倒れて犠牲になった女児がいたことが要因ですが、近隣市には支援物資が届かず高槻の独り占めのような状態になりました。ブルーシートは、茨木市などではお金を出しても手に入らない状態でしたが、高槻市ではタダで貰えるシートがたくさんありました。
2018年の西日本豪雨では『真備』というワードがワイドショーで頻発しました。まび記念病院での救出劇があったことが主な要因です。
土日だけで1,000人規模のボランティアが集まる倉敷と違い、広島の名の知れぬ街では1週間で10人くらいという格差が生まれ、復旧にかかる時間や費用にも差が出ました。
被災の程度は同じくらいでも、報道されるか否かで支援物資やボランティアスタッフの数に雲泥の差が出る現在、このロジを管理できる危機管理センターのようなものがあると良いなといつも思います。
いつかはウェブシステムで支援物資の需給調整ができるようにしたいと思っています。
どこかで『タオル1,000枚』と入力すれば1,000枚に達するまで募集し、到達後は締め切ることで過剰に集まる事もないですし、不足もしづらいと思います。
同時に伝票や、段ボールに貼るラベルも作ってしまい、統一されたフォーマットで段ボールの側面と上面にラベルがあれば、管理もしやすくなります。
入荷する量が規定でき、不慣れな市役所職員でも荷捌きしやすくなります。
送る側もA市は要らないがB市が足りないと知れば、そこに振り分ける事もできますし、善意の記録もどこかに残せると思います。
こうしたことを考えるきっかけになる3月11日ですが、社会実装できるように努めていきたいと思います。
画像アーカイブ
ネット上に公開されている東日本大震災のものとされる写真から何枚かリンクを貼っておきたいと思います。
当サイトで管理していないので、リンク切れになってしまった場合は申し訳ありません。
この写真の場所はわかりませんが、信号が点灯していないことから、このエリアは停電しているのだと思います。
手前の道路は震災後に修繕されたのかわかりませんが、直進や左折の矢印が手書きっぽいです。
広い道路に商店が並び、本来であれば人通りも車通りも多いような場所が、ものすごく静かであることが伝わってくる写真です。
この写真は亘理町の消防団の車両です。
当時を想像すると、おそらく使用中に津波にのまれてしまったであろうことが目に浮かびます。
もしかするとギリギリまで消防団は活動していたのかもしれません。ご無事を祈るばかりです。
この写真は自衛隊の災害派遣です。
任務に当たる自衛隊員の心境はわからないのですが、この被災地に入って、ゴールがまったく見えない中で、どのようにモチベーションを維持するのかなと思います。
発災当初は人命救助が優先され、瓦礫の中を丁寧に捜索されますが、何万戸もの建物が被災している中で、1軒でも早く捜索したい気持ちと、1軒ずつ丁寧に作業したい気持ちと、色々とぶつかるのだろうと思います。
毎回、お世話になっています。
この写真はコンビニエンスストアの様子です。
津波被害のあった被災地ではよく見かけたのですが、建物のフレーム以外は根こそぎ持っていかれた感じになります。
コンビニは個人オーナーも多い業態ですので、資金を貯めて開業し、商圏が狭いので地元に密着したサービスを展開してきた結果がこのような形になるのは、非常に残念な気持ちになっておられるであろうと思います。
商店が無くなるということは、地元住民の生活にも影響します。支援物資でオニギリやパンは手に入っても、野菜や肉など調理して食べる食材は送られてきませんので、自炊したくても食材がありません。好きな弁当を食べたくても、選択の余地はありません。